2016年5月、京都産業大学にて「スポーツと人間形成」についての講義を行った。これで5年目となる講義では、天理高校での春の選抜高校野球大会優勝、レッドソックスとの契約でアメリカに渡ったこと、野球引退後は営業マンとして3年連続日本一に輝いたこと、栄光と挫折を繰り返しながらも、
「自分自身であり続けること」の大切さを熱を込めて語った。
1979年生まれ。
大阪府出身。
野球に出会ったのは、小学校入学前のこと。天才少年の呼び名をほしいままにして、多くの高校からの誘いを受けたが、一番早かった天理高校に入学。
1997年 天理高校 春の選抜高校野球大会優勝
「最速高校球児」
日本の野球の歴史を塗り替える
春夏合わせた甲子園の一回戦での全選手の打ってからの1塁までのタイムが1番速い、最速の球児として、ボストン レッドソックスと高校生野手として初めてマイナー契約。
当時、日本の高校生もここまで来たか、という感慨があちらこちらで聞かれた。
野茂投手、伊良部投手が活躍を始めていたメジャーリーグから、高校生球児をスカウトするために海を渡ってくるという事実に、日本中が熱狂した。
テレビ、新聞、雑誌はこぞって取り上げ、アメリカに渡る日もテレビ取材が密着していた。
2年目の年、ルーキーリーグで年間MVPを獲得し、
2000年 1A(high A)昇格(注:1Aには、high、low、 short seasonsと三つある。その一番上)
順風満帆、日本野球界の歴史をさらに塗り替えるかに見えた。
しかし、4年目に外国人枠(メジャー合わせて選手約180人中、当時は外国人は27人のみ)から漏れ、レッドソックスから給与を得ながらメキシカンリーグでプレーし、オフに解雇となる。
ヘルニア発症のため一年の休養を経て
2003年 米独立リーグエルマイラパイオニアーズ(野茂英雄氏がオーナー)で自ら志願し、投手に転向してプレー。最高は148km
2004年 和歌山の箕島球友会で2年間プレー。
”この時、西川監督に言われた、「野球やってるだけじゃダメだぞ!」という言葉が人生観を大きく変えてくれた。
色んな人の支えがあって野球出来るという、当たり前の事が当たり前に理解出来た、社会人としての基礎を作ってくれた恩人に出逢えた事が、今の人生に大きく活かされてると思っている。”
2006年 岩手県の赤べこ野球軍団でプレー。
2007年 奈良の大和高田クラブに入団するも、肩に激痛が走り2年で引退 。激動の野球人生が終わりを告げた。
30歳にして、初めて野球以外の就職となった。サンメディカル(医療機器メーカー)は元々現役の時にお世話になっていた整骨院で導入していた世界最高の治療器械である。
在籍した約5年の間に営業マンとは何かを徹底的に社長から教わる。
そして、野球の現役時代にやってこなかった、①コツコツと②ムラを作らず③諦めない、を実践し、いとも簡単に3年連続トップ営業マンとなり、支店長代理まで任され順調なキャリアを積んでいた。
しかし、実社会には、
「本気の出し方を知らない人が多すぎる」と感じた。
その方法を伝えたい。自分の言葉で。
その願いとともに、アスリートのセカンドキャリアの仕事にも関わることを願うようになり、現在は外資系企業で勤務しつつ、AHMの理事として、講演家として、第三の人生を歩み始めている。
アスリート時代に培った、レジリエンス(折れない心)の原点は、
今は亡き、レッドソックスのコーチの言葉
"Don't change your things!"
「いろんな人がいろんなことを言うが、自分が思ったことを信じろ!」
人生の岐路に出会った時、この言葉に励まされ、決断を重ねてきた。
これからは、わたしが若者に、自分の経験とこの言葉を力強く伝えたい。