芦屋ユナイテッドバレーボールクラブにて、小学生中学生のバレーボール指導を始め、数年が経った。
「すぐ疲れる」
「ボールが投げられない」
「ボールをキャッチできない」
そういう子どもが年々増えてきている。
自分の子どもの頃と違って、外で思い切り遊ぶ機会が減っているのかもしれない。そういう子どもたちに、遊びながら基本的な「走る 跳ぶ 投げる 打つ」という動作を身につけたら、きっと将来に渡っての体力づくりになり、バレーボールにも親しめるにちがいない。
1969年生まれ 豊中市出身
元気に走り回る子ども時代、小学校5年で始めたバレーボール
中学校時代は主将として大阪府ベスト8
四天王寺高校に進学 主将としてインターハイ出場
国体メンバーに選出
全日本ジュニア選抜としてアジアジュニア選手権優勝
1988年 実業団チーム東洋紡オーキスに入社、猛打賞獲得
1990年 全日本代表選出世界選手権出場
1994年 選手たる自分への挑戦も込めダイエーオレンジアタッカーズに移籍
選手層が厚く、高さとパワー優位のダイエーオレンジアタッカーズで、174㎝のスパイカーだった自分に求められていることは何か、どんな選手になるべきか。
恩師に言われた「実力をつけなさい」という言葉とじっくり向き合うことになった。
ブロックアウト、フェイント、リバウンドの個人技術に磨きをかけた。ディフェンスを安定させ、自分が信じるスタイルを貫くことに注力。チームに必要不可欠な選手となった。
1996年は選手生活 激動の年だった。
3月 オリンピック候補選手に選ばれる
5月 ダイエーオレンジアタッカーズで黒鷲旗優勝
オリンピック候補として出場した世界最終予選で日本は 1位通過、オリンピック出場権を得る
そしてオリンピックメンバーに選出され夏のアトランタへ
叶わない場所だと思っていたオリンピック
その舞台に立てた事は生涯の宝物になった
オリンピック後のリーグ戦では6位。不本意な結果となる。
高さとパワーのある若手選手がどんどん起用されることも増えた。そんな中で、来季もハードワークをしてコンディションを整えることの苦しさに、引退か現役続行か葛藤が渦巻いた。しかし、迷っているうちは少しでもやろうという気持ちがあるということ、今ここで辞めて後悔が残るのはイヤ!
どんなポジションにおかれても、もう1年トレーニングをしてみようと心に決め、再び自己鍛錬とチーム練習に励んだ。その結果、ジャンプ力も伸び、コンディションも上々に。控えに回る事が多かったが、リーグ戦で優勝、そして黒鷲旗でも優勝。
”この瞬間、もうやりきった!引退しても後悔はない!!と心の底から思え、引退を決意した。”
家族、恩師、友人、一緒にプレーしてきた仲間…応援してくれた人たちに湧き上がる感謝の気持ち。色んな人の支えがあって、自分を信じることができ、「本気で頑張ること」ができた。
1998年 現役引退
やり尽くしたバレーボール生活。神戸メリケンパークオリエンタルホテルへ就職し、研修を経て人事課にて勤務。バレーボールのことを思い出すこともなかった。
2004年 教室とイベントに誘われる形で再びバレーボールに触れることとなる。
「人に教える」とういう立場になって「伝えること」の難しさに気付いた。自分が当たり前に出来ることを、出来ない人に伝えるには?改めて自分の身体の動きを分析し、先輩達の指導もどんどん吸収していった。
2009年 イベント参加者の中高生や保護者からの多岐に渡る質問に出来る限り答えたい、もっと指導のことを勉強したいと日本体育協会のバレーボール上級コーチの資格を取得。
2011年 芦屋ユナイテッドバレーボールクラブのコーチ就任。
最初数人だった練習生が、今では60人を超える大所帯となる間に、子どもたちの心身の発育発達に目が向くようになった。
バレーの知識、ゲーム、スキル以前の必要なものが多すぎる。それはどうして?そう考えると練習内容も少しずつ変化していった。
”単にバレーボールを教えるだけではなく、楽しく遊びながら動きを習得させることが現代の子どもには何よりも必要なこと。″
何より大切なことは、本気で「頑張り続ける」こと。
モチベーションを高く保つことは誰しもが難しい。
だからこそ目標を明確にする。辿り着きたいゴールを思い描いて日々行動する。
そうした積み重ねが自分を目標に近付けてくれる。
たくさんの人たちに、バレーボールの本当の楽しさを伝えたい
人との関わりや「できた!できる!」の体験を通して
目標を持って少しずつ前へと進める心を育てる指導をしたい